米津玄師の昔を知ると、現在のシンガーソングライターとしての姿とは異なる、もう一つの才能が見えてくる。1991年3月10日に徳島県で生まれた米津玄師は、幼少期から絵を描くことが好きな少年だった。中学生になるとバンド活動を始め、高校時代にはインターネット上で音楽を発表するようになる。そして2009年、ハチ名義でニコニコ動画にVOCALOID楽曲を投稿し、ネット音楽シーンで大きな注目を集めた。
2012年には本名の米津玄師としてアルバム『diorama』を発表。2013年にはシングル「サンタマリア」をリリースし、活動の舞台をさらに広げていった。昔の写真と現在のビジュアルの違い、ハチ時代の代表曲、中学時代のバンド活動、顔の印象が変わった理由など、本人のインタビューと公式プロフィールを軸に、2026年11月現在までの歩みを時系列で整理する。
【生い立ち】米津玄師の若い頃は徳島育ちの絵好きな少年だった

米津玄師は1991年3月10日生まれ。出身地は徳島県で、2026年11月現在は35歳になる。
所属レーベルのREISSUE RECORDSとユニバーサルミュージックの公式プロフィールでも、徳島県出身であることが紹介されている。
幼少期は音楽よりも絵を描くことが好きだった現在の米津玄師といえば、作詞・作曲だけでなく、イラストや映像制作まで手掛けるクリエイターとして知られている。その創作活動の原点は、幼少期から続けていた絵にある。
2015年の歌ネットのインタビューで、本人は幼稚園の頃から自然に絵を描いていたと振り返っている。ドラえもんや『NARUTO』『ONE PIECE』などの漫画が好きで、当時は漫画家に憧れていたという。
母親がイラストを描くことも得意だったと語っており、絵を描くことは身近な表現手段だったようだ。
小学5年生の頃にFLASHアニメーションと出会う音楽への関心が芽生えたきっかけとして、本人が挙げているのが、小学5年生の頃にインターネット上で流行していたFLASHアニメーションだ。
当時は、イラストや簡単なアニメーションに音楽を組み合わせた動画が数多く投稿されていた。米津は、こうした映像を通して音楽に興味を持つようになったと話している。
最初から音楽家を目指していたというより、絵や映像への興味が音楽と結び付き、徐々に自分でも作品を作りたいという気持ちにつながっていったのである。
中学生になって歌詞やメロディーに強く惹かれる中学生になると、音楽の聴き方にも変化が生まれた。
本人がインタビューで挙げた影響源は、BUMP OF CHICKEN、ASIAN KUNG-FU GENERATION、スピッツなどのバンドだ。特に楽曲の言葉や歌詞に関心を持ち、音楽を単なる娯楽ではなく、自分の感情を表現する手段として捉えるようになった。
米津玄師の楽曲に見られる、日常の中の孤独や違和感を言葉にする表現力。その背景には、こうした少年時代の音楽体験がある。
出典:2015年歌ネット掲載の本人インタビュー、米津玄師公式プロフィール。
【中学時代】バンド活動からハチ名義のボカロPへ進んだ理由
米津玄師の昔を語るうえで欠かせないのが、中学時代のバンド活動だ。
現在は一人で楽曲を作り上げるイメージが強いが、音楽活動の出発点は仲間と組んだバンドだった。しかも、当時から既存の曲を演奏するだけではなく、自分のオリジナル曲を作ることに強い関心を持っていた。
中学1〜2年生で作曲を始める2024年9月、テレビ朝日系の音楽番組「EIGHT-JAM」にVTR出演した米津は、中学生時代のバンド活動について振り返った。
スポーツ紙のスポニチアネックスが伝えた番組内容によると、米津は中学時代にBUMP OF CHICKENやスピッツなどを聴き、自分でもバンドを結成。中学1、2年生の頃から作曲を始め、実際にバンドで演奏していたという。
2015年の歌ネットのインタビューでも、同じ部活の仲の良い友人たちとバンドを組んだことを明かしている。
本人にとってバンドは、オリジナル曲を形にするための手段だった。初めて組んだバンドで、最初に演奏した曲がオリジナル曲だったというエピソードからも、当時から作曲への意欲が強かったことが分かる。
高校時代もバンドは続いたが、活動の中心は個人制作へ中学卒業後もバンドは一応続いていた。しかし、高校時代はライブの機会も年に2回程度で、練習という名目で友人たちと過ごすことも多かったと本人は話している。
その一方で、個人での音楽制作は活発になっていった。
2015年の歌ネットのインタビューによると、高校3年間でニコニコ動画に投稿した楽曲は約20曲。未発表の作品も含めると、およそ100曲を制作していたという。
この制作量は、後のハチ時代を理解するうえで要点だ。インターネットに作品を投稿する前から、すでに一人で作曲を続ける創作習慣ができていたのである。
バンドからボカロPへ方向転換した本当の理由2024年の「EIGHT-JAM」出演時、米津はバンド活動からボカロPへ進んだ背景について、共同作業が得意ではなかったことを説明している。
本人の言葉によれば、理想はバンドだったものの、長く活動するなかで自分には向いていないと感じるようになったという。
「共同作業が苦手」
スポニチアネックスが報じた本人の説明では、当時すでにニコニコ動画という投稿場所があり、一人で作った楽曲を遠くの人に聴いてもらう方法が自分に合っていたという。
これは単純にバンド活動を諦めたという話ではない。自分の創作スタイルに合う発表方法を見つけたということだ。
バンドでは複数人の意思を調整する必要がある。一方、パソコンを使った個人制作なら、作曲から編曲、映像まで自分の判断で進められる。後に米津が音楽とビジュアルの両方を手掛けるようになったことを考えると、この選択は非常に大きな転換点だった。
【ハチ時代】2009年のニコニコ動画投稿から「マトリョシカ」まで
米津玄師がハチという名前で活動していたことを知らない人にとって、ボカロP時代の作品は意外な発見かもしれない。
2009年、米津はハチ名義でニコニコ動画へのオリジナル楽曲の投稿を開始した。VOCALOIDを使った音楽制作に加え、イラストや映像制作まで自ら担当。独特の世界観と中毒性のあるサウンドで、ネット音楽シーンに存在感を示していった。
なぜハチという名義を使ったのか2015年の歌ネットのインタビューで、本人はインターネット上では本名で活動する習慣があまりなかったため、ハンドルネームを付けたと説明している。
つまり、ハチという名前は、インターネット上で作品を発表する際の活動名だった。
ハチ名義での活動は、米津玄師という本名を隠すためだけのものではない。ネット上の音楽コミュニティーに参加し、作品を発表するための自然な選択だったといえる。
代表曲「マトリョシカ」と「パンダヒーロー」ハチ時代を代表する作品として、特に知られているのが次の楽曲だ。
「マトリョシカ」
2010年に公開されたVOCALOID楽曲。初音ミクとGUMIの歌声を使用し、疾走感のあるサウンド、独特の言葉選び、印象的な映像表現が特徴だ。ハチの名前を広く知らしめた代表作の一つとなった。
「パンダヒーロー」
2011年に発表された楽曲。GUMIを使用し、勢いのあるロックサウンドと個性的な歌詞で人気を集めた。現在の米津玄師の作品にも通じる、独特な言語感覚や音楽的な構成が感じられる。
「結ンデ開イテ羅刹ト骸」
ハチの初期を代表する楽曲の一つ。和風のモチーフや不穏な世界観を取り入れた作品で、独自の映像表現とともに注目された。
本人は2015年のインタビューで、投稿した4曲目ほどの楽曲が急激に再生され、当初は何かの間違いではないかと思ったと振り返っている。
ハチ名義でアルバムも2作品発表ニコニコ動画での人気を背景に、ハチは2010年にアルバム『花束と水葬』『OFFICIAL ORANGE』をリリースした。
注目すべきなのは、単にVOCALOIDに楽曲を歌わせるプロデューサーではなかったことだ。
作曲、サウンド制作、イラスト、動画という複数の領域を横断して作品を作っていた。現在の米津玄師のクリエイターとしての活動は、この時期にすでに形作られていたのである。
【経歴年表】ハチ時代から本名デビュー、現在までの転換点
米津玄師の経歴を整理すると、ハチ時代と本名での活動は、完全に切り離された別々のキャリアではないことが分かる。ネットで培った制作技術を土台に、自分自身が歌うアーティストへと活動領域を広げていった流れだ。
| 年代 | 主な出来事・作品 | キャリア上の意味 |
|---|---|---|
| 1991年 | 3月10日、徳島県で誕生 | 創作活動の原点となる少年時代 |
| 幼少期 | 絵を描くことに親しむ | イラストや映像制作の基礎 |
| 中学時代 | バンド結成、オリジナル曲を制作 | 作曲家としての出発点 |
| 高校時代 | バンド活動と個人での楽曲制作 | ネット投稿を含む創作活動が活発化 |
| 2009年 | ハチ名義でニコニコ動画に投稿開始 | VOCALOIDプロデューサーとして活動 |
| 2010年 | 『花束と水葬』『OFFICIAL ORANGE』 | ハチ名義のアルバムを発表 |
| 2010〜2011年 | 「マトリョシカ」「パンダヒーロー」 | ボカロシーンで知名度を拡大 |
| 2012年 | 『diorama』を米津玄師名義で発表 | 本人が歌うソロ活動を本格化 |
| 2013年 | 「サンタマリア」「MAD HEAD LOVE」「ドーナツホール」 | 生音を取り入れた活動とハチ名義の継続 |
| 2014年 | アルバム『YANKEE』、初のワンマンライブ | ライブアーティストとして活動を拡大 |
| 2018年 | 「Lemon」が大ヒット | 幅広い層に支持される存在へ |
| 2026年 | 「烏」「夜鷹」、GHOSTツアー | 国内外で大規模な活動を展開 |
出典:米津玄師公式プロフィール、ユニバーサルミュージック、歌ネットの本人インタビュー、ソニーミュージック公式情報、音楽ナタリーのデビュー10周年特集。
2012年『diorama』が本名での大きな転換点2012年5月16日、米津玄師は本名名義で初のアルバム『diorama』を発表した。
この作品の大きな特徴は、全曲の作詞・作曲・編曲・プログラミング・歌唱・演奏・ミックスを本人が手掛けていることだ。加えて、アートワークや映像制作にも携わっている。
音楽ナタリーのデビュー10周年特集によると、『diorama』は制作に約2年を費やした作品で、ハチ時代のVOCALOID楽曲を収録せず、自分自身の声で歌う新しい作品として完成した。
これは単なる名義変更ではない。VOCALOIDの歌声を通じて表現していた世界を、自分自身の歌声で届けるという新しい挑戦だった。
ハチ名義から米津玄師へ完全に変更したわけではないここで誤解しやすいのが、2012年にハチ名義を終了し、米津玄師へ改名したという説明だ。
実際には、両方の名義で活動した時期がある。2013年にはハチ名義で、約2年9か月ぶりとなるVOCALOID楽曲「ドーナツホール」を発表している。
また、2015年の本人インタビューでは、ボカロのコミュニティーに対して育ててもらった恩義や愛情があると語っている。
したがって、正確にはハチを捨てて米津玄師に改名したのではなく、ハチとしての活動で得た経験を持ちながら、本名での表現へ活動領域を広げたという理解が適切だ。
【昔の写真と現在を比較】米津玄師の顔が変わったといわれる理由
米津玄師の昔の写真を探す人が多い理由の一つが、現在と若い頃のビジュアルの違いだ。
ハチ時代から2010年代前半にかけては、目元にかかる長めの前髪や、顔の一部が隠れるスタイルが印象的だった。一方、近年は顔全体が見える髪型や、洗練されたアーティスト写真も増えている。
昔と現在の印象の違い時期ごとの特徴を整理すると、次のようになる。
- ハチ時代:本人の顔写真よりも、イラストや映像、VOCALOIDの世界観が活動の印象を形作っていた。
- 2012〜2015年頃:本名での活動が本格化し、本人が歌う姿やミュージックビデオでの表情が知られるようになった。
- 2017〜2019年頃:髪型や口元の印象に変化が見られる時期として報じられた。
- 2023年以降:CMなどで顔全体を見せる機会が増え、従来のイメージとの違いが話題になった。
- 2026年:作品やツアーに合わせた新しいアーティスト写真を公開し、ビジュアル面でも変化を続けている。
2023年6月、米津はコカ・コーラ「ジョージア」のCMに出演した際、以前より顔全体が見えるスタイルで登場した。
この変化について、週刊女性PRIMEは、長く続けてきた重めの前髪を変えたことが、視聴者に大きな印象の違いを与えたと報じている。
以前は前髪によって目元が隠れることが多かったため、顔の輪郭や目元がはっきり見えるようになると、同じ人物でも印象は大きく変わる。
また、2017〜2019年頃に歯科矯正をしていたという報道もあり、口元の印象が変わった要因として紹介されている。
整形したという噂は本当なのか米津玄師の顔については、美容整形をしたのではないかという話題がインターネット上で見られる。
しかし、本人や所属事務所が美容整形を公表した公式情報は確認できない。歯科矯正に関する報道と、美容整形を受けたという推測は別の話である。
昔と現在の写真を比較する場合は、前髪の有無、撮影時期、照明、表情、撮影角度なども考慮する必要がある。
顔が変わったという印象だけで、整形を事実として扱うことはできない。
米津玄師自身は顔を見せることをどう考えていたのか興味深いのは、本人が2015年のインタビューで、顔を出すことへの抵抗と、その必要性について語っている点だ。
「自分が“米津玄師”としてやるなら、顔は出さなきゃな」
歌ネットのインタビューによると、本人は1stシングル「サンタマリア」のミュージックビデオで初めて顔を出した際、実はかなり嫌だったと振り返っている。
それでも、音楽を聴く側の立場になったとき、歌っている人の顔が浮かぶ作品が好きだと考え、自分も米津玄師として活動するなら顔を見せる必要があると判断したという。
この発言から分かるのは、ビジュアルの変化が単なる外見の問題ではないということだ。作品をどう届けるかという、アーティストとしての考え方とも結び付いている。
【2026年最新】米津玄師の現在の活動と昔から変わらない魅力
2026年11月現在の米津玄師は、国内の音楽活動にとどまらず、映画主題歌や国際的なライブツアーなど、幅広い分野で活動している。
公式サイトREISSUE RECORDSの発表を見ると、2026年は新曲の発表が相次ぎ、11月からは国内アリーナツアー、12月からはワールドツアーが予定されている。
2026年6月「烏」をNHKサッカーテーマとして発表2026年4月28日、米津の新曲「烏(からす)」が2026 NHKサッカーテーマに決定した。
楽曲は6月15日にデジタル配信され、FIFAワールドカップ2026の中継をはじめ、NHKのサッカー関連番組で使用された。
公式サイトに掲載された本人のコメントでは、長年愛してきたサッカーをテーマに、集団の中にいる一人ひとりの人間が、健やかな個人でもあってほしいという願いを込めたと説明している。
これは、初期のハチ時代から続く、個人の感情や内面を大切にする表現にも通じる作品だ。
7月には映画『キングダム 魂の決戦』主題歌「夜鷹」を発表2026年7月13日には、新曲「夜鷹」を配信リリースした。
同曲は映画『キングダム 魂の決戦』の主題歌として書き下ろされた作品である。
公式サイトでは、楽曲に関連したインタビューも公開され、米津が創作の原風景や作品に込めた思いについて語っている。
10月には「JANE DOE」のミュージックビデオが1億回再生を突破2025年9月23日に公開された米津玄師と宇多田ヒカルの楽曲「JANE DOE」のミュージックビデオは、2026年10月8日午前9時38分にYouTubeで1億回再生を突破した。
劇場版『チェンソーマン レゼ篇』のエンディングテーマとして制作された同曲は、両アーティストの個性が交差する作品としても注目された。
公開から1年15日での1億回再生達成は、米津の楽曲が現在も幅広いリスナーに届いていることを示す実績の一つだ。
10月22日には「春が灯り」の映画主題歌起用を発表2026年10月22日、米津の書き下ろし楽曲「春が灯り」が、12月11日公開の『劇場版 薬屋のひとりごと 亡妃の秘宝』の主題歌に決定した。
本人は楽曲制作にあたり、脚本を読み込む一方で、童謡の「チューリップ」や「あんたがたどこさ」から大きな影響を受けたとコメントしている。
幼少期から絵やアニメーション、音楽に親しんできた米津らしい、幅広い創作の背景が感じられるエピソードだ。
11月2日には劇場版『虎に翼』主題歌も発表2026年11月2日には、新曲「こんにちはごきげんよう!」が、2027年1月15日公開の劇場版『虎に翼』の主題歌に決定したことが発表された。
NHK連続テレビ小説『虎に翼』の主題歌「さよーならまたいつか!」に続き、劇場版でもオープニングテーマと主題歌の両方を担当する。
米津は今回の楽曲について、前作と対になる曲であり、自身の葬式でも流せるような曲を目指したとコメントしている。
2026年11月時点で発表されている主な新作・活動を整理すると、次のとおりだ。
- 6月15日:「烏」配信リリース。2026 NHKサッカーテーマ。
- 7月13日:「夜鷹」配信リリース。映画『キングダム 魂の決戦』主題歌。
- 10月8日:「JANE DOE」ミュージックビデオが1億回再生を突破。
- 10月22日:「春が灯り」の劇場版『薬屋のひとりごと』主題歌起用を発表。
- 11月2日:「こんにちはごきげんよう!」の劇場版『虎に翼』主題歌起用を発表。
2026年11月6日から12月17日まで、国内アリーナツアー「米津玄師 2026 TOUR / GHOST」が開催される。
公式発表によると、長野、神奈川、大阪、福岡、宮城、愛知の6会場を巡る全14公演だ。
加えて、12月26日から2027年2月28日にかけては「KENSHI YONEZU 2026-2027 WORLD TOUR / GHOST」を開催。アジア、北米、ヨーロッパの11都市を巡り、全15公演を予定している。
今回のワールドツアーでは、シンガポール、オークランド、メキシコシティ、トロント、アムステルダムの5都市に初めて進出する。台北ではドーム公演、ソウルでは3公演を実施するなど、海外での活動規模も拡大している。
2009年にニコニコ動画へ楽曲を投稿していたクリエイターが、現在では世界各地のドームやアリーナを舞台に活動している。この変化は、米津玄師のキャリアを象徴するものだ。
【昔と現在の評判】米津玄師が長く支持される理由とは
米津玄師の評価は、活動初期から現在まで同じ形で続いてきたわけではない。ハチ時代と本名での活動では、作品の届け方も、聴き手との接点も大きく変化している。
ハチ時代はネット音楽シーンの創作力が評価されたハチ時代の評価を支えたのは、VOCALOIDを使った独特なサウンド、印象的なメロディー、映像と音楽が一体となった作品づくりだった。
当時のニコニコ動画では、楽曲を投稿し、視聴者がコメントや再生を通じて反応する文化が広がっていた。ハチは、そのコミュニティーの中で存在感を高めたクリエイターの一人である。
本名での活動では歌声と歌詞への評価が広がった2012年の『diorama』以降は、本人の声で歌うことによって、楽曲の受け取られ方が変化していった。
2014年の『YANKEE』、2015年の『Bremen』などを通じて、ライブ活動や一般リスナーとの接点も増えていく。
2018年にはドラマ『アンナチュラル』の主題歌「Lemon」が大きなヒットを記録し、米津玄師という名前は、ネット音楽を知らない層にも広く知られるようになった。
こうした変化は、過去のファンを切り捨てて新しい層に移行したという話ではない。ハチ時代に培った創作技術を基盤として、表現方法と活動範囲を拡張してきた結果だ。
昔のビジュアルと現在の姿に対する反応2023年の週刊女性PRIMEの記事では、米津が顔全体を見せるスタイルになったことについて、以前のミステリアスな雰囲気を好む意見と、顔が見える現在の姿を肯定する意見の両方が紹介された。
つまり、昔の姿を懐かしむファンがいる一方で、現在のビジュアルも本人の変化として受け入れるファンがいる。
ただし、外見の変化だけで音楽的な評価を判断することはできない。米津玄師の評価を支えているのは、作品ごとに新しい表現を生み出してきた創作姿勢そのものだ。
【プロの結論】米津玄師の昔を知ると現在の音楽がもっと深く理解できる
米津玄師の経歴を振り返ると、徳島での少年時代、絵や映像への関心、中学時代のバンド活動、ハチ名義でのボカロP時代、そして本名でのソロ活動は、すべて一つの創作の流れとしてつながっている。
特に重要なのは、2012年の『diorama』を単なる改名やデビュー作品として捉えないことだ。VOCALOIDという音声合成技術を使って作品を発表していたクリエイターが、自分自身の声で歌い、より広い聴き手に向けて表現を始めた転換点だった。
また、中学時代にバンドを組んでいた経験も、現在の音楽性を理解するうえで欠かせない。最初から一人で活動することを望んでいたわけではなく、実際に仲間と音を鳴らす経験を経て、自分に適した制作スタイルを見つけていったのである。
米津玄師の昔を調べる際に押さえておきたい判断基準は、次の3つだ。
- 活動名義を混同しない:ハチは別人ではなく、米津玄師がVOCALOID楽曲などを発表する際に使用した名義である。
- 写真と整形の噂を区別する:髪型や表情、歯科矯正に関する報道と、美容整形の事実は分けて考える。
- 昔と現在を対立させない:ハチ時代の創作技術や経験は、現在の米津玄師の音楽にもつながっている。
2009年のニコニコ動画から始まった活動は、2026年には国内アリーナツアーや世界11都市を巡るワールドツアーへと発展した。活動の規模や表現方法は変わっても、自分の手で作品を作り、独自の世界観を届ける姿勢は一貫している。
米津玄師の昔に関するよくある質問(FAQ)
Q1:米津玄師は昔、何という名前で活動していた?
A1:ハチという名義で活動していた。2009年からニコニコ動画にVOCALOIDを使用したオリジナル楽曲を投稿し、「マトリョシカ」「パンダヒーロー」などを発表した。
Q2:米津玄師は中学時代からバンドを組んでいた?
A2:組んでいた。中学生時代に友人とバンドを結成し、中学1〜2年生頃から作曲も始めた。高校に進学してからもバンドは続いていたが、次第に一人での楽曲制作を中心に活動するようになった。
Q3:米津玄師がハチから本名に改名したのはいつ?
A3:2012年に本名の米津玄師名義でアルバム『diorama』をリリースした。ただし、ハチ名義を完全に終了したわけではなく、2013年にも「ドーナツホール」を発表している。
Q4:米津玄師の昔と現在で顔が変わった理由は?
A4:前髪や髪型の変化、顔全体を見せる機会の増加、歯科矯正に関する報道などが印象の違いにつながっている。美容整形を本人が公式に公表した情報は確認できない。
Q5:米津玄師は2026年現在、何をしている?
A5:2026年は「烏」「夜鷹」などを発表し、映画主題歌も担当している。11月6日から国内アリーナツアー「GHOST」、12月26日からは2027年2月まで続く世界11都市のワールドツアーを予定している。
米津玄師の昔をたどると、徳島で絵を描いていた少年が、中学時代のバンド活動を経て、2009年にハチ名義でニコニコ動画へ楽曲を投稿し、2012年に本名でのソロ活動を始めるまでの道のりが見えてくる。
「マトリョシカ」「パンダヒーロー」で知られるハチ時代と、「Lemon」や「KICK BACK」などで知られる米津玄師の活動は、別々のものではない。どちらも、自分の感性を音楽や映像に落とし込み、独自の世界を作り上げるという共通点を持っている。
2026年は「烏」「夜鷹」の発表に加え、国内アリーナツアー、世界11都市を巡るワールドツアー、さらには映画主題歌の制作など、活動の幅をさらに広げている。
昔の写真やハチ時代の楽曲を振り返ることは、単に若い頃の姿を懐かしむことではない。現在の米津玄師がどのような経験を積み、どんな創作の積み重ねによって今の表現にたどり着いたのかを理解する手掛かりになる。
徳島の少年時代から世界のステージへ。その歩みを知れば、これから発表される新曲やライブも、より深い視点で楽しめるはずだ。