徳川慶喜の将軍としての代数は、第15代です。
初代将軍の徳川家康が1603年に江戸幕府を開いて以来、15人の将軍がその地位を継承しました。慶喜はその最後にあたる人物で、1866年に将軍となり、幕府の政治権力を朝廷へ返す大政奉還を実行しました。
国立国会図書館の「近代日本人の肖像」でも、慶喜は江戸幕府第15代将軍として紹介されています。生没年は1837年10月28日から1913年11月22日です。
徳川慶喜の基本プロフィール- 名前:徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
- 生年月日:1837年10月28日
- 没年月日:1913年11月22日
- 父:徳川斉昭(水戸藩主)
- 出身:水戸徳川家
- 一橋家相続:1847年
- 徳川宗家相続:1866年
- 将軍就任:1866年(慶応2年)
- 将軍職辞任:1867年(慶応3年、旧暦)
- 将軍の代数:第15代
慶喜はもともと水戸徳川家の出身です。父は水戸藩主の徳川斉昭で、幼少期から徳川家の後継者候補として注目されていました。
1847年には一橋家を相続し、一橋慶喜とも呼ばれます。その後、幕末の政治情勢の中で重要な役割を担い、1862年には将軍後見職に就任しました。
なぜ慶喜が最後の将軍になったのか慶喜が将軍に就任した背景には、第14代将軍・徳川家茂の死去があります。
家茂は1866年に21歳で亡くなりました。当時、幕府は第二次長州征討や外交問題など、複数の政治的課題を抱えていました。
後継者として選ばれた慶喜は、同年12月5日に征夷大将軍に任命されます。
ただし、将軍に就任した時点で幕府の権力基盤はすでに揺らいでいました。薩摩藩と長州藩の連携、朝廷の政治的影響力の拡大、外国との外交問題など、徳川幕府を取り巻く状況は大きく変化していたのです。
【徳川将軍家の歴代一覧】15代将軍の順番を完全整理

徳川家康から徳川慶喜まで、江戸幕府の将軍は全部で15人です。
歴代の名前を順番に覚える際には、家康が初代、家茂が14代、慶喜が15代という3人を基準にすると整理しやすくなります。
徳川15代将軍の順番一覧徳川将軍家の歴代15人を一覧にすると、次のとおりです。
| 代数 | 将軍名 | 読み方・関係 |
|---|---|---|
| 初代 | 徳川家康 | いえやす・江戸幕府を開いた |
| 2代 | 徳川秀忠 | ひでただ |
| 3代 | 徳川家光 | いえみつ |
| 4代 | 徳川家綱 | いえつな |
| 5代 | 徳川綱吉 | つなよし |
| 6代 | 徳川家宣 | いえのぶ |
| 7代 | 徳川家継 | いえつぐ |
| 8代 | 徳川吉宗 | よしむね・紀伊徳川家出身 |
| 9代 | 徳川家重 | いえしげ |
| 10代 | 徳川家治 | いえはる |
| 11代 | 徳川家斉 | いえなり・一橋家出身 |
| 12代 | 徳川家慶 | いえよし |
| 13代 | 徳川家定 | いえさだ |
| 14代 | 徳川家茂 | いえもち・紀伊徳川家出身 |
| 15代 | 徳川慶喜 | よしのぶ・一橋家出身 |
出典は小学館の「デジタル大辞泉」に掲載された江戸幕府の項目および東京都江戸東京博物館の徳川一門に関する展示解説です。
徳川家康から慶喜までの将軍家の継承には特徴がある歴代将軍の順番を見ると、単純に父から長男へと地位が引き継がれたわけではないことが分かります。
東京都江戸東京博物館の解説によれば、初代家康の直系は4代家綱まで続き、徳川宗家の血筋は7代家継の代で途絶えました。
その後は御三家や御三卿など、徳川一門の別の家から将軍が迎えられています。
特に注目したいのが、次の4人です。
- 8代・徳川吉宗:紀伊徳川家から将軍に就任。
- 11代・徳川家斉:一橋家から将軍に就任。
- 14代・徳川家茂:紀伊徳川家から将軍に就任。
- 15代・徳川慶喜:一橋家から将軍に就任。
慶喜は水戸徳川家に生まれた後、一橋家を相続して将軍になりました。
つまり、慶喜が15代将軍になったのは、家康から続く単純な直系相続によるものではありません。徳川一門全体で将軍家を維持してきた歴史の延長線上にあったのです。
【就任から辞任まで】徳川慶喜の在任期間と重要年表
慶喜の将軍在任期間は、約1年です。
ただし、大政奉還を行った日と将軍職を辞任した日は異なります。この違いを理解するには、慶喜の就任から幕府の政治体制が変わるまでを時系列で見る必要があります。
徳川慶喜の主要な出来事1866年(慶応2年)12月5日:第15代将軍に就任
第14代将軍・徳川家茂の死去を受け、慶喜が将軍に任命されました。
この日は旧暦の日付であり、西暦に換算すると1867年1月10日です。和暦と西暦で年が異なるため、歴史年表を見るときには注意が必要です。
1867年(慶応3年)10月14日:大政奉還を上表
慶喜は朝廷に対し、政権を返上する意向を示しました。
翌15日には朝廷から大政奉還が認められます。
これによって、徳川幕府による政治体制は大きな転換点を迎えました。
1867年(慶応3年)10月24日:将軍職の辞表を提出
慶喜は大政奉還とは別に、将軍職についても辞任を申し出ました。
しかし、この時点では辞表の受理は保留されています。したがって、大政奉還をした直後に将軍ではなくなったわけではありません。
1867年12月9日(旧暦):王政復古の大号令
朝廷によって王政復古の大号令が発せられました。
同日、慶喜の将軍職辞任も認められ、徳川幕府の政治機構は大きく変わることになります。
この日は西暦では1868年1月3日にあたります。
【大政奉還と将軍職辞任は別】混同しやすい2つの出来事
徳川慶喜の歴史を理解するうえで、特に重要なのが大政奉還と将軍職辞任の違いです。
この2つは同じ出来事ではありません。
大政奉還とは何だったのか大政奉還とは、将軍に委任されていた政治上の権限を朝廷に返上することです。
1867年10月14日、慶喜は大政奉還の上表文を朝廷に提出しました。
その翌日に朝廷がこれを承認しています。
当時、幕府は外交や国内政治を担っていましたが、幕末には朝廷や諸藩の政治的発言力が強まっていました。
慶喜は、政治権限を朝廷に返上することで、従来の幕府政治から新たな政治体制へ移行する道を模索したのです。
ただし、大政奉還は徳川家が政治的影響力を完全に放棄することと同義ではありません。新しい政治体制の中でも徳川家が重要な立場を確保する余地を残す動きだったという見方もあります。
将軍職辞任とは何だったのか将軍職辞任は、慶喜自身が征夷大将軍という地位を退くことです。
大政奉還後の1867年10月24日、慶喜は将軍職の辞表を提出しました。
しかし、すぐには受理されませんでした。
その後、1867年12月9日(西暦1868年1月3日)、将軍職辞任が認められました。
国立公文書館の行政文書にも、慶喜の将軍職辞退を認めた記録が残されています。
2つの出来事の違い| 比較項目 | 大政奉還 | 将軍職辞任 |
|---|---|---|
| 意味 | 政治権限の返上 | 将軍という地位から退くこと |
| 申し出の日 | 1867年10月14日 | 1867年10月24日 |
| 承認・受理 | 10月15日 | 12月9日(旧暦) |
| 西暦上の位置 | 1867年11月9日 | 1868年1月3日 |
| 歴史的意味 | 幕府政治の転換 | 慶喜の将軍職からの退任 |
このように、大政奉還と将軍職辞任は、政治権限と官職という異なるものを対象にした手続きでした。
「大政奉還をした日=徳川慶喜が将軍を辞めた日」という理解は正確ではありません。
ここを区別するだけで、幕末の政治的な流れがかなり分かりやすくなります。
【王政復古の大号令】江戸幕府が終焉を迎えた背景
徳川慶喜が将軍職を退くことになった大きな転換点が、王政復古の大号令です。
王政復古の大号令で何が変わったのか王政復古の大号令は、1867年12月9日(西暦1868年1月3日)に発せられました。
この号令では、従来の幕府や摂政・関白などの政治制度が廃止され、新たに総裁・議定・参与という三職が設置されました。
つまり、政治の中心を幕府から天皇を中心とする新しい政府へ移す体制変更だったのです。
国立公文書館には、王政復古の大号令に関する当時の詔書が保存されています。
大政奉還だけで江戸幕府が完全に消滅したわけではない大政奉還によって政治権限は朝廷へ返上されましたが、それだけですべての政治的・軍事的な対立が解消されたわけではありません。
旧幕府勢力と新政府側の対立は続き、1868年には鳥羽・伏見の戦いが発生します。
慶喜は旧幕府軍が敗れた後、大坂から江戸へ戻り、謹慎生活に入ることになりました。
その後、江戸城の開城などを経て、旧幕府の支配体制は解体されていきます。
徳川慶喜は将軍を辞めた後どうなった?将軍職を辞任した慶喜は、政治の第一線から退きました。
1869年には謹慎が解除され、駿府(現在の静岡市周辺)で生活するようになります。
1897年には東京へ移り、1902年には公爵を授けられました。
そして1913年11月22日、76歳で亡くなっています。
幕府最後の将軍という印象が強い慶喜ですが、実際には明治時代を長く生き、徳川幕府の終焉後も40年以上の人生を送りました。
【プロの結論】徳川慶喜を理解する3つの歴史的ポイント
徳川慶喜を単に「最後の将軍」として覚えるだけでは、幕末の歴史を十分に理解できません。
重要なのは、将軍への就任、政治権限の返上、将軍職からの退任という3段階を区別することです。
1. 15代という数字は徳川将軍家の歴史を表している慶喜は、家康から始まる15人目の将軍です。
江戸幕府は約265年間続きましたが、15代で将軍制度としての歴史に区切りを迎えました。
2. 大政奉還は政治体制を変える決断だった慶喜の大政奉還は、単純な個人の引退ではありません。
徳川家が長年担ってきた政治権限を朝廷へ返し、新たな政治体制を模索する歴史的な出来事でした。
一方、慶喜がその後も将軍職にとどまっていた事実は、政治権限の返上と将軍という地位の辞任が別の問題だったことを示しています。
3. 最後の将軍と徳川家最後の人物は同じ意味ではないもう一つ、誤解しやすい点があります。
徳川慶喜は最後の将軍ですが、徳川家そのものが慶喜の代で途絶えたわけではありません。
徳川記念財団によると、徳川宗家は慶喜の後も継承され、16代家達、17代家正、18代恒孝へと続き、2023年1月からは19代家広が当主を務めています。
つまり、「徳川幕府の将軍は15代で終わったが、徳川家の歴史はその後も続いている」という点が大切です。
【徳川慶喜何代目】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:徳川慶喜は何代目の将軍ですか?
A1:江戸幕府第15代将軍です。初代の徳川家康から数えて15人目であり、徳川幕府最後の将軍として知られています。
Q2:徳川慶喜の前の将軍は誰ですか?
A2:第14代将軍の徳川家茂です。家茂が1866年に亡くなった後、慶喜が将軍職を引き継ぎました。
Q3:徳川慶喜の将軍在任期間は何年ですか?
A3:約1年です。慶応2年12月5日に将軍に就任し、慶応3年12月9日に将軍職辞任が認められました。西暦に換算すると、1867年1月から1868年1月までです。
Q4:徳川慶喜は大政奉還と同時に将軍を辞めたのですか?
A4:いいえ。大政奉還は1867年10月14日、将軍職辞任の申し出は同月24日です。辞任が認められたのは同年12月9日(旧暦)でした。
Q5:徳川慶喜は徳川家康の子孫ですか?
A5:徳川家康を始祖とする徳川一門の人物です。ただし、慶喜は水戸徳川家に生まれ、その後一橋家を相続しています。家康から続く直系の子孫として将軍になったわけではありません。
Q6:徳川慶喜の次の将軍は誰ですか?
A6:慶喜の後に江戸幕府の第16代将軍となった人物はいません。将軍職そのものが終わったためです。ただし、徳川宗家の当主はその後も代々継承されています。
徳川慶喜は、江戸幕府の第15代将軍であり、最後の将軍です。
1866年に第14代将軍・徳川家茂の後を継ぎ、約1年間将軍職を務めました。その間、1867年に大政奉還を実行し、同年12月には将軍職辞任が認められています。
今回押さえておきたい歴史的事実は次のとおりです。
- 徳川慶喜は第15代将軍。
- 初代将軍は徳川家康。
- 14代将軍は徳川家茂。
- 慶喜の将軍在任期間は約1年。
- 大政奉還は1867年10月14日。
- 将軍職辞任が認められたのは1867年12月9日(旧暦)。
- 王政復古の大号令によって幕府の政治体制は終焉へ向かった。
徳川慶喜の歴史は、単に15代目の将軍が最後だったという話ではありません。江戸幕府という長い政治体制が、どのように終わり、新しい時代へ移っていったのかを理解するための重要な歴史でもあります。
2026年現在も、徳川慶喜は幕末と明治維新をつなぐ象徴的な人物として、日本史を学ぶうえで欠かせない存在です。