岸本才三(きしもと・さいぞう)は、指定暴力団・山口組で長年にわたり幹部を務めた元岸本組組長です。元海軍航空隊員、元神戸市職員という経歴を持ち、三代目山口組組長・田岡一雄の時代に直系組長へ昇格。その後、四代目山口組の本部長兼若頭補佐、五代目山口組の総本部長、六代目山口組の最高顧問を歴任しました。
2007年10月に引退し、2014年1月17日に85歳で死去しています。1997年の宅見勝射殺事件では現場に居合わせていたことでも知られています。2026年現在、岸本才三本人はすでに亡くなっていますが、岸本組の歴代組長や後継者をめぐる情報は、現在の山口組の動向を理解するうえでも関心を集めています。
【岸本才三とは】読み方・人物像と2026年現在の状況

岸本才三の読み方は「きしもと・さいぞう」です。兵庫県神戸市出身で、山口組の三代目から六代目までの時代に組織運営に携わった人物として知られています。
2014年1月17日、神戸新聞NEXTは警察当局への取材をもとに、岸本才三が同日午後に死去したと報道しました。享年85歳でした。
同紙によると、岸本は元海軍航空隊員、元神戸市職員という異色の経歴を持ち、神戸市中央区に本拠を置く岸本組を率いていました。山口組の組織運営に数十年携わった元幹部として、その死去が報じられています。
2026年現在、岸本才三は生きている?岸本才三は2014年1月17日に亡くなっており、2026年現在も存命という情報は誤りです。
混同されやすいのは、岸本才三本人の近況と、彼が率いた岸本組のその後の動向です。本人は2007年に引退しており、2014年に死去しました。一方、岸本組は後継者によって二代目、三代目へと継承されたと報じられています。
2026年11月1日付のアサヒ芸能の記事でも、三代目岸本組の野元信孝組長が六代目山口組の事務局次長として活動する様子が取り上げられています。これは岸本才三本人の活動ではなく、後継組織に関する情報です。
【生い立ちと経歴】神戸市職員から山口組直系組長への道
神戸市出身、戦時中は海軍航空隊員岸本才三の生い立ちについて、広く確認できる情報は限られています。神戸新聞NEXTの報道などによれば、神戸市で生まれ、戦時中は海軍航空隊員として志願した経歴があります。
終戦を迎えた後は復員し、神戸市の職員となりました。戦後の公務員としての経歴から、後年の暴力団組織における立場を想像しにくい人物だったことは確かです。
神戸市職員として勤務する一方、山口組傘下の中山組との関係を持つようになったとされています。2007年の引退報道でも、神戸市職員として在職中に中山組に入った経緯が紹介されました。
ただし、幼少期の家庭環境や家族構成、学校生活などの詳細は、主要報道からは明らかになっていません。
田岡一雄が率いた三代目山口組で直参に昇格岸本才三の経歴を理解するうえで欠かせないのが、三代目山口組組長の田岡一雄です。
岸本は山口組傘下の中山組との関係を経て、1973年に三代目山口組の直参へ昇格したと報じられています。
「直参」とは、上部組織の組長と直接的な親子関係にある直系組長を指す呼称です。傘下組織に所属する立場と、山口組本家の直系組長になる立場では、組織上の位置付けが異なります。
この昇格によって岸本は、田岡一雄が率いる山口組の中枢に近い立場へ進みました。その後も組織内で役職を重ね、四代目、五代目、六代目の各体制に関わっていきます。
【山口組での役職と経歴年表】本部長・総本部長・最高顧問を歴任
岸本才三の特徴は、単に岸本組の組長だったという点だけではありません。山口組の代替わりをまたいで、複数の重要ポストを務めたことにあります。
四代目山口組では本部長兼若頭補佐1984年に四代目山口組が発足すると、岸本は本部長兼若頭補佐に就任したとされています。
当時の四代目組長は竹中正久です。本部長は本家組織の運営に関わる役職であり、若頭補佐は若頭を補佐する立場に当たります。岸本はこの時期、山口組内部で重要な役割を担っていました。
五代目山口組では総本部長に就任1989年、渡辺芳則が五代目組長に就任すると、岸本は総本部長を務めることになります。
総本部長は本家の組織運営に関わる主要ポストです。岸本が三代目時代から長年にわたって組織内の地位を保っていたことを示す経歴の一つです。
1997年には若頭の宅見勝が射殺される事件が発生しました。その後の組織運営においても、岸本は重要な位置にいたと報じられています。
六代目山口組で最高顧問に就任2005年8月に六代目山口組が発足すると、岸本は最高顧問に就任しました。
最高顧問は組織内の顧問職であり、執行部の実務を担う役職とは性格が異なります。岸本の場合、長年の幹部経験を背景にした立場だったと整理できます。
主要な経歴を時系列で
| 時期 | 出来事・役職 | 関係する人物・背景 |
|---|---|---|
| 戦時中 | 海軍航空隊員 | 出撃前に終戦を迎えたと報じられる |
| 戦後 | 神戸市職員 | 公務員として勤務 |
| 1973年 | 三代目山口組の直参に昇格 | 田岡一雄体制 |
| 1984年 | 本部長兼若頭補佐 | 四代目・竹中正久体制 |
| 1989年 | 総本部長 | 五代目・渡辺芳則体制 |
| 1997年 | 宅見勝射殺事件に遭遇 | 神戸市中央区のホテル |
| 2005年 | 最高顧問に就任 | 六代目・司忍体制 |
| 2007年10月 | 山口組および岸本組から引退 | 後任は清水武 |
| 2014年1月17日 | 85歳で死去 | 神戸新聞NEXTが報道 |
この年表から分かるのは、岸本が一つの代の幹部にとどまらず、田岡一雄の三代目体制から司忍の六代目体制まで、長期間にわたって山口組の組織運営に関わっていたという点です。
【宅見勝射殺事件との関係】1997年のホテル襲撃で何があったのか
1997年8月28日に発生した宅見勝射殺事件岸本才三の名前が事件史とともに語られる大きな理由の一つが、1997年8月28日に発生した宅見勝射殺事件です。
宅見勝は当時、五代目山口組の若頭を務めていた宅見組組長で、山口組のナンバー2に位置付けられていました。
事件が起きたのは、神戸市中央区にあった新神戸オリエンタルホテルの喫茶室です。宅見勝と男性歯科医師が銃撃され、2人とも死亡しました。
神戸新聞NEXTが事件発生20年に合わせて掲載した2017年の記事では、山口組内部のトラブルを背景とする抗争殺人事件として説明されています。実行犯の逮捕などが進められた一方、組織上層部の関与を解明する難しさも指摘されました。
岸本才三も宅見勝と同席していた神戸新聞NEXTの2014年1月17日付の訃報記事は、事件当時の岸本について重要な事実を伝えています。
岸本は宅見勝と一緒にいたところを襲撃グループに発砲され、別の幹部とともに難を逃れたと報じられました。
つまり、岸本才三は宅見勝射殺事件の現場に居合わせていた人物です。
ここで注意したいのは、事件現場にいたという事実と、事件の実行や計画に関与したということは全く別だという点です。神戸新聞の訃報記事が伝えているのは、岸本が宅見と同席していて襲撃を受けたという経緯です。
事件が山口組の組織運営に与えた意味宅見勝は山口組の若頭という重要な役職に就いていました。その人物が死亡したことで、組織運営に大きな影響が生じました。
事件の背景には組織内部の対立があり、兵庫県警による捜査も長期化しました。神戸新聞の事件検証記事は、実行犯らの逮捕に至った一方、上層部の関与を立証することの難しさを伝えています。
岸本の経歴を調べる際、宅見勝との関係は重要な接点ですが、事件における岸本の立場は、まず現場に居合わせて襲撃を免れた幹部として理解する必要があります。
【2007年の引退から2014年の死去まで】岸本組の後継者と歴代組長
2007年10月、最高顧問と岸本組組長を引退岸本才三は2007年10月、六代目山口組の定例会で引退を表明しました。
当時79歳だった岸本は、田岡一雄時代から山口組の直系組長を務めてきた古参幹部でした。引退は、長年にわたって組織中枢にいた人物が第一線を退く出来事として報じられました。
岸本組の後任となったのは、当時若頭を務めていた清水武です。清水は二代目岸本組組長を継承しました。
この継承によって、岸本才三は組織の創設者・初代組長という立場になり、岸本組は後継者による運営へ移行しました。
2014年1月17日、85歳で死去引退から約6年後の2014年1月17日、岸本才三は85歳で亡くなりました。
神戸新聞NEXTによると、死因の詳細は不明で、病死とみられると報じられています。また、亡くなる前には体調を崩して入院していたと伝えられました。
これにより、三代目山口組時代から長く活動してきた岸本の生涯は終わりました。
岸本組の歴代組長は誰?岸本才三の死後も、岸本組の名称と組織上の系譜は後継者に引き継がれています。公開されている組織情報や業界報道で確認できる歴代組長は、次の3人です。
初代:岸本才三
岸本組を率いた創設者です。山口組の三代目から六代目までの体制に関わり、2007年に引退しました。
二代目:清水武
岸本組で若頭を務めていた人物で、2007年に二代目を継承しました。2017年11月15日に72歳で死去したと報じられています。
三代目:野元信孝
清水武の後を継ぎ、三代目岸本組組長となった人物です。野元は二代目古庄組の経歴を持ち、岸本組の後継者として組織を引き継いだとされています。
2026年11月1日付のアサヒ芸能の記事でも、野元信孝は三代目岸本組組長として紹介されています。同記事では六代目山口組の事務局次長を務める人物としても取り上げられました。
このように、岸本組の歴代組長を整理すると、岸本才三から清水武、野元信孝へと続く系譜になります。ただし、これは組織の後継者の変遷であり、岸本才三本人が2014年以降も組織を運営していたという意味ではありません。
【誤解されやすい点とプロの結論】岸本才三の経歴から分かること
神戸市職員だったことと暴力団幹部だったことは別々の時期の話ではない岸本才三について特徴的なのは、神戸市職員として勤務していた経歴と、山口組傘下組織との関係が並行していたと報じられている点です。
一般的な人物紹介では、職業や所属は時系列に分けて説明されます。しかし岸本の場合、神戸市職員として在職していた時期に中山組との関係を持ったとする報道があり、単純な転職歴とは異なります。
この経歴は、当時の社会と暴力団組織の関係を考える際にも注目される部分です。
総本部長と最高顧問は同じ役職ではない岸本才三の肩書きについて、もう一つ注意したいのが総本部長と最高顧問の違いです。
総本部長は本家組織の運営に関わる役職であるのに対し、最高顧問は顧問としての立場を示す役職です。岸本は五代目体制で総本部長を務め、六代目体制では最高顧問となりました。
そのため、最高顧問に就任したことを、総本部長としての職務をそのまま継続したという意味に捉えるのは正確ではありません。
【プロの結論】岸本才三の経歴を理解する3つの視点岸本才三の生涯を読み解く際には、次の3点が重要です。
第一に、山口組の代替わりと役職の変化を分けて考えること。
岸本は田岡一雄の三代目体制で直参となり、四代目では本部長、五代目では総本部長、六代目では最高顧問を務めました。個人の経歴だけでなく、各代の組長と組織構造を照らし合わせることで、その立場が理解しやすくなります。
第二に、事件への遭遇と事件への関与を混同しないこと。
宅見勝射殺事件では岸本も現場に居合わせていました。しかし、現場にいたという事実だけで事件への関与を推定することはできません。事件の経緯と個々の人物の立場は、報道で確認できる範囲に沿って区別する必要があります。
第三に、本人の引退・死去と後継組織の動向を区別すること。
2007年の引退、2014年の死去、岸本組の二代目・三代目への継承は、それぞれ異なる出来事です。岸本才三の現在を調べる読者は、本人が亡くなっている事実と、後継組織に関する2026年の報道を混同しないことが大切です。
岸本才三の現在と経歴に関するよくある質問(FAQ)
Q1:岸本才三の読み方は何ですか?
A1:岸本才三は「きしもと・さいぞう」と読みます。神戸市出身で、元海軍航空隊員、元神戸市職員という経歴を持つ元山口組幹部です。
Q2:岸本才三は現在も生きていますか?
A2:いいえ。2014年1月17日に85歳で死去しています。神戸新聞NEXTが警察当局への取材をもとに報じました。死因の詳細は公表されておらず、病死とみられています。
Q3:岸本才三は宅見勝射殺事件に関与していたのですか?
A3:岸本は1997年8月28日の宅見勝射殺事件の現場に居合わせていた人物です。宅見勝と同席していたところ襲撃グループに発砲され、別の幹部とともに難を逃れたと神戸新聞が報じています。現場にいたことと事件の実行への関与は区別する必要があります。
岸本才三は、元海軍航空隊員、元神戸市職員という経歴を経て、山口組の三代目田岡一雄体制で直参となった人物です。その後、四代目で本部長兼若頭補佐、五代目で総本部長、六代目で最高顧問を歴任しました。
1997年の宅見勝射殺事件では現場に居合わせ、2007年10月に引退。2014年1月17日に85歳で死去しました。
岸本組は、岸本才三の引退後に清水武が二代目を継ぎ、その後、野元信孝が三代目を継承したとされています。2026年にも後継者に関する報道が続いています。
岸本才三という人物を理解するには、個人の生涯だけでなく、田岡一雄時代から続く山口組の歴史、宅見勝射殺事件、そして岸本組の後継者の変遷を時系列で整理することが欠かせません。
2014年に生涯を終えた岸本本人の経歴と、その後も続く組織の系譜。この2つを区別することが、岸本才三に関する情報を正確に理解するためのポイントです。
主な根拠資料: 神戸新聞NEXTの2014年訃報記事、2017年の宅見勝射殺事件検証記事、2007年の引退・継承報道、2026年11月1日付のアサヒ芸能の記事を参照しています。