輪島大士(わじま・ひろし)は、昭和の大相撲を代表する第54代横綱である。日本大学時代に2年連続で学生横綱に輝き、1973年に横綱へ昇進。左下手投げを武器とする「黄金の左」で幕内優勝14回を記録し、北の湖とともに大相撲の黄金期「輪湖時代」を築いた。
一方、その生涯は土俵上の栄光だけでは語れない。1981年の現役引退と花籠部屋の継承、1985年の年寄名跡をめぐる問題と相撲協会からの廃業、1986年の全日本プロレス転向など、角界の常識を覆す転身を経験した。2018年10月8日に70歳で亡くなったが、2026年現在も昭和の名横綱としてその功績は語り継がれている。
【輪島大士のプロフィール】第54代横綱の基本情報と2026年現在

輪島大士は1948年1月11日、石川県七尾市に生まれた。本名は輪島博。四股名は「輪島」で、引退後も大相撲ファンや報道では輪島大士の名前で広く知られている。
所属部屋は花籠部屋。現役時代の身長は184.5センチ、体重は125キロと、日本相撲協会の歴代横綱プロフィールに記録されている。得意技は左四つ、下手投げ、寄り切り。特に左を差して相手の懐に入り、強烈な下手投げを繰り出す取り口が特徴だった。
輪島大士の基本プロフィール| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 輪島大士(わじま・ひろし) |
| 本名 | 輪島博 |
| 生年月日 | 1948年1月11日 |
| 出身地 | 石川県七尾市 |
| 最終学歴 | 日本大学 |
| 所属部屋 | 花籠部屋 |
| 最高位 | 第54代横綱 |
| 横綱昇進 | 1973年7月場所 |
| 幕内優勝 | 14回 |
| 生涯戦歴 | 673勝234敗85休(68場所) |
| 幕内戦歴 | 620勝213敗85休(62場所) |
| 現役引退 | 1981年3月場所 |
| プロレス引退 | 1988年12月 |
| 没年月日 | 2018年10月8日(70歳) |
このプロフィールで注目したいのは、輪島が単に優勝回数の多い横綱ではなかったという点だ。学生相撲から大相撲に進み、幕下付け出しでデビューしてから約3年半で横綱に到達した。学生スポーツからプロの最高位へ進んだ先駆的な存在だった。
2026年現在、輪島大士はどうしている?輪島大士は2018年10月8日、東京都世田谷区の自宅で亡くなっている。享年70歳。したがって、2026年現在は存命ではなく、現役活動や近況を伝える情報は存在しない。
現在のプロフィール情報として確認できるのは、日本相撲協会に残る歴代横綱の公式記録や、過去の取材・追悼報道などである。2026年の視点では、幕内優勝14回という成績だけでなく、学生相撲出身者が横綱になる道を切り開いた功績も評価の対象となっている。
【日本大学から第54代横綱へ】学生横綱から頂点に上り詰めた経歴
輪島の相撲人生は、石川県での学生時代から始まる。高校は金沢高校に進学し、その後、日本大学へ進んだ。大学相撲部では早くから実力を発揮し、1968年と1969年に2年連続で学生横綱に輝いている。
日本相撲協会が公開する大相撲クイズの解説でも、輪島は日大在学中の3年生と4年生で連続して学生横綱になった人物として紹介されている。加えて、学生時代には複数のタイトルを獲得し、プロ入り前から全国的な注目を集めていた。
大学卒業後、花籠部屋に入門1970年1月場所、輪島は花籠部屋から幕下付け出しで初土俵を踏んだ。通常、力士は前相撲や序ノ口などから番付を上げていくが、輪島は学生相撲での実績が認められ、幕下からスタートする特別な待遇を受けた。
デビュー後の勢いは圧倒的だった。初土俵から間もなく幕下で結果を残し、同年5月場所には新十両に昇進。1971年1月場所には新入幕を果たした。さらに1972年には三役に進出し、同年5月場所で12勝3敗を記録して幕内初優勝を達成する。
貴ノ花と同時期に大関昇進、そして横綱へ1972年9月場所では13勝を挙げ、同じ時期に活躍していた貴ノ花とともに大関へ昇進した。若い実力者が次々と番付を上げるなか、輪島は大関としても安定した成績を残す。
転機となったのが1973年5月場所だ。輪島は15戦全勝で優勝。圧倒的な内容が評価され、同年7月場所から第54代横綱に昇進した。
初土俵から約3年半で横綱に到達したスピードは、当時の大相撲でも際立っていた。日本大学出身の学生相撲経験者が横綱に昇進した初めての例として、相撲史に残る出来事となった。
また、輪島は戦後生まれ初の横綱としても知られている。学生相撲からプロの頂点へ進んだ経歴は、その後の学生出身力士にとっても象徴的な先例となった。
【黄金の左と輪湖時代】幕内優勝14回を生んだ輪島の強さ
輪島大士の名前を聞いて、多くの相撲ファンが思い浮かべるのが「黄金の左」だ。左四つから相手のまわしを取り、下手投げで豪快に投げる独特の取り口を指す。
単純に左腕の力が強かったという話ではない。相手との距離を詰め、左を差して有利な体勢をつくり、相手の重心や動きを利用して投げる。その一連の動作が輪島の強さを支えていた。
「黄金の左」はなぜ強かったのか輪島の得意技は左四つ、下手投げ、寄り切り。日本相撲協会の公式プロフィールにも、この3つが得意技として掲載されている。
相手に左を差されると、右から十分に攻めることが難しくなる。さらに輪島は左を差した状態から相手の体勢を崩し、下手投げで勝負を決める技術を持っていた。
相手にとって厄介だったのは、左を警戒するほど攻めの選択肢が狭まることだ。立ち合いから左を封じようとすれば、輪島の別の攻めにつながる。こうした攻防の駆け引きも、黄金の左が長く語り継がれる理由の一つである。
北の湖とのライバル関係が生んだ輪湖時代輪島の横綱時代を語るうえで欠かせないのが、第55代横綱・北の湖敏満との関係だ。
北の湖は輪島より5歳ほど年下の強豪で、若くして圧倒的な実力を発揮した。輪島が黄金の左を中心とした技術と勝負勘で対抗したのに対し、北の湖は強靱な体格と圧力を生かした相撲を展開した。
両者が横綱として競い合った時期は「輪湖時代」と呼ばれる。1970年代後半の大相撲を象徴する時代であり、両横綱の対戦は本場所の大きな見どころとなった。
デイリースポーツの追悼記事では、両者の通算対戦成績は輪島の23勝21敗と紹介されている。ほぼ互角の勝負を繰り広げたことからも、単なる一方的なライバル関係ではなかったことが分かる。
幕内優勝14回と生涯戦歴673勝の意味輪島の幕内優勝は14回。全勝優勝も3回記録しており、横綱としての実績は非常に高い。
日本相撲協会の公式記録による生涯戦歴は673勝234敗85休、68場所。幕内だけでも620勝213敗85休という成績を残している。
ここで注意したいのは、生涯戦歴と幕内戦歴は別の数字だということだ。生涯戦歴には幕下や十両などの成績も含まれる。一方、幕内戦歴は幕内に在位した期間の成績を示す。
また、優勝14回という数字は幕内最高優勝の回数であり、十両や幕下での優勝は別に集計される。輪島は十両優勝1回、幕下優勝2回も記録している。
【輪島大士の生涯年表】学生時代から引退、プロレス転向までの転換点
輪島の経歴を理解するには、相撲界での成功と、その後の親方生活、さらにプロレスへの転身を一続きの歴史として見る必要がある。
以下は、日本相撲協会の公式プロフィール、同協会の解説、日刊スポーツなどの報道をもとに整理した主要な出来事と関係者の一覧だ。
| 時期 | 出来事 | 関係者・意義 |
|---|---|---|
| 1948年1月 | 石川県七尾市に誕生 | 本名は輪島博 |
| 1968年 | 学生横綱に輝く | 日本大学相撲部 |
| 1969年 | 2年連続で学生横綱 | 大学相撲で実績を確立 |
| 1970年1月 | 幕下付け出しで初土俵 | 花籠部屋 |
| 1971年1月 | 新入幕 | 大相撲の幕内力士へ |
| 1972年5月 | 幕内初優勝 | 関脇で12勝3敗 |
| 1972年11月 | 大関昇進 | 貴ノ花と同時期に昇進 |
| 1973年7月 | 第54代横綱に昇進 | 学生相撲出身初の横綱 |
| 1974年 | 北の湖との名勝負が続く | 輪湖時代を形成 |
| 1980年11月 | 14回目の幕内優勝 | 最後の幕内優勝 |
| 1981年3月 | 現役引退 | 花籠部屋を継承 |
| 1985年12月 | 相撲協会を廃業 | 年寄名跡の担保問題 |
| 1986年4月 | 全日本プロレスに入門 | ジャイアント馬場のもとで再出発 |
| 1986年11月 | 国内プロレスデビュー | 故郷・七尾でタイガー・ジェット・シンと対戦 |
| 1988年12月 | プロレスラー引退 | 約3年間のレスラー生活に区切り |
| 2018年10月8日 | 70歳で死去 | 下咽頭がんと肺がんの影響 |
この年表から分かるのは、輪島の人生には大きく3つの転換点があることだ。1973年の横綱昇進、1981年の花籠部屋継承、そして1985年の廃業と1986年のプロレス転向である。
特に1980年代半ばの出来事は、相撲界での成功がそのまま親方としての成功につながるわけではないことを示している。現役時代の名声と、部屋経営や年寄名跡の管理には、異なる責任と仕組みが存在していた。
【花籠部屋の継承と廃業】輪島大士が相撲協会を離れた理由
1981年3月場所、輪島は現役を引退した。横綱として長年土俵に立ち続けたが、1978年ごろから休場が目立つようになり、1980年11月場所の優勝を最後に幕内最高優勝から遠ざかっていた。
1981年春場所では3日目に引退を表明。その後、師匠の定年に伴って花籠部屋を継承し、第12代花籠親方となった。
引退理由は体力面だけではなかった輪島の引退については、年齢や体力面の変化に加え、部屋の継承という事情も関係していた。
師匠の定年が迫っており、花籠部屋を存続させるためには後継者への名跡継承が必要だった。日刊スポーツの報道でも、1981年3月場所の引退と花籠部屋の継承が一連の出来事として記録されている。
引退後は審判委員などを務め、部屋の師匠として弟子の育成にも取り組んだ。輪鵬や花ノ国など、関取に昇進した力士も育てている。
現役時代のスター選手から、今度は部屋を運営する立場へ。輪島にとっては、競技者とは異なる責任を担う新しいキャリアの始まりだった。
1985年、年寄名跡をめぐる問題が発覚大きな転機となったのが1985年の年寄名跡をめぐる問題だ。
年寄名跡とは、日本相撲協会に親方として所属するために必要となる名跡である。親方として部屋を運営するうえでも重要な位置を占める制度であり、その取り扱いには厳格な管理が求められる。
1985年11月、輪島の花籠名跡が借金の担保に使われていたことが発覚した。日刊スポーツの当時の経緯を振り返る報道では、実妹が名跡を借金の担保に入れた問題が取り上げられている。
この問題により輪島は日本相撲協会から2階級降格と無期限謹慎の処分を受け、同年12月に協会を離れることになった。
現役時代に第54代横綱まで上り詰めた人物が、親方としてのキャリアを不祥事によって終えることになったのである。
花籠部屋はその後どうなったのか1985年の廃業に伴い、当時所属していた力士たちは放駒部屋へ移籍した。これによって、輪島が継承していた花籠部屋は閉鎖された。
ただし、花籠部屋という名称がその後完全に消滅したわけではない。1992年に別の師匠によって再興され、2012年には再び閉鎖されている。
2012年の閉鎖は経営難などが背景と報じられたもので、1985年の輪島による廃業とは別の出来事だ。この2つの閉鎖を混同しないことが、花籠部屋の歴史を正しく理解するポイントとなる。
【全日本プロレス転向】横綱からプロレスラーになった異例の挑戦
相撲協会を離れた輪島は、1986年に全日本プロレスへ入門した。大相撲の横綱経験者がプロレスラーになるという異例の転身は、当時のスポーツ界で大きな話題となった。
この転身を実現させた人物が、全日本プロレスの創設者であるジャイアント馬場だ。馬場は輪島の知名度と身体能力に注目し、新たなスター選手として迎え入れた。
1986年、38歳でプロレスデビュー1986年4月に全日本プロレスへ入門した輪島は、米国やプエルトリコでプロレスのトレーニングを積んだ。
同年8月には米国でジャイアント馬場とタッグを組んでデビュー。国内での本格的なデビュー戦は11月1日、故郷の石川県七尾市で行われた。
対戦相手はタイガー・ジェット・シン。激しいファイトで知られる外国人レスラーを相手に、輪島は両者反則による引き分けという結果を残した。
この試合は大きな注目を集めた。ベースボール・マガジン社の『週刊プロレス』関連資料でも、1986年11月1日の七尾大会が輪島の国内デビュー戦として記録されている。
プロレスラー時代の必殺技はゴールデン・アームボンバー輪島のプロレスラー時代を象徴する技が、ゴールデン・アームボンバーだ。相撲時代の強烈な突きや喉輪を連想させる技で、ノド輪落としとしても紹介されている。
相撲で培った腕力や体格を生かしたファイトスタイルは、プロレスでも個性となった。全日本プロレスではリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦し、スタン・ハンセンとのPWF世界ヘビー級王座決定戦にも臨んでいる。
一方で、プロレスは相撲とは異なる競技だ。受け身、試合展開、相手との連係、長期的なコンディション管理など、独自の技術と経験が必要になる。
輪島は横綱としての知名度を持っていたものの、プロレス界で長年経験を積んだ選手とはキャリアの差があった。話題性と集客力は大きかったが、タイトル獲得には至らなかった。
1988年12月にプロレス引退、その後の活動輪島は1988年12月にプロレスラーを引退した。現役期間は約3年間。日刊スポーツの追悼記事によると、引退発表や引退試合は行われず、膝や首など身体への負担も重なっていた。
プロレス引退後は、学生援護会アメリカンフットボール部の総監督を務めたほか、タレントとしてテレビなどにも出演した。大相撲の元横綱という経歴に加え、独特のキャラクターや人柄も注目された。
相撲界を離れた後も、輪島は一つの分野にとどまらない人生を歩んだ。横綱、親方、プロレスラー、そしてタレントという複数の顔を持つ人物だった。
【死因と没後の評価】2018年に70歳で亡くなった輪島大士の功績
輪島大士は2018年10月8日午後8時、東京都世田谷区の自宅で亡くなった。70歳だった。翌9日、関係者への取材を通じて訃報が報じられた。
死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱日刊スポーツやデイリースポーツなどの報道によると、死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱だった。
輪島は2013年に咽頭がんの手術を受けていたことも報じられている。2015年に北の湖が亡くなった際には、すでに発声が難しい状態にあり、文書でコメントを発表していた。
長年にわたってライバルとして競い合った北の湖に先立たれ、輪島自身も病気と闘う日々を送っていた。2018年の訃報は、昭和の大相撲を支えた名横綱の死として大きく報じられた。
輪島大士が相撲史に残した3つの功績輪島の没後の評価を整理すると、特に次の3点が重要になる。
1. 学生相撲から横綱への道を切り開いたこと。
日本大学で2年連続学生横綱となり、幕下付け出しから横綱まで昇進した経歴は、学生相撲出身者にとって大きな先例となった。学業と競技の両立を経て大相撲の頂点に到達した点は、輪島を語るうえで欠かせない。
2. 黄金の左という独自の相撲を確立したこと。
幕内優勝14回という結果に加え、左四つと下手投げを中心とした相撲は、技術面でも高く評価されている。相手に合わせるだけではなく、自分の得意な形に持ち込む戦術が輪島の強みだった。
3. 北の湖とともに大相撲の時代を築いたこと。
輪湖時代は、単に2人の横綱が同時に活躍したというだけではない。異なる相撲の個性を持つ両者が競い合うことで、場所ごとの優勝争いに大きな緊張感が生まれた。北の湖の存在があったからこそ、輪島の強さも際立った。
よくある誤解:輪島は相撲引退後にすぐプロレスへ転向したのか輪島の経歴を簡単に紹介する記事では、1981年の相撲引退から1986年のプロレス入門までが省略されることがある。
実際には、1981年から1985年まで花籠部屋の師匠として相撲協会に所属していた。その後、年寄名跡の問題によって廃業し、翌1986年に全日本プロレスへ入門している。
つまり、相撲引退とプロレス転向の間には約5年間の親方生活があった。輪島の人生を理解するには、この期間を抜きにすることはできない。
【輪島大士に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:輪島大士は第何代横綱ですか?
A1:第54代横綱です。1973年7月場所から横綱に昇進しました。日本大学出身で、学生相撲出身者として初めて横綱になった力士としても知られています。
Q2:輪島大士の幕内優勝は何回ですか?
A2:幕内最高優勝は14回です。全勝優勝は3回。生涯戦歴は673勝234敗85休(68場所)、幕内戦歴は620勝213敗85休(62場所)です。
Q3:輪島大士の死因は何ですか?
A3:2018年10月8日に70歳で亡くなりました。日刊スポーツなどの報道では、下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱とされています。
Q4:輪島大士が相撲協会を辞めた理由は何ですか?
A4:1985年、花籠の年寄名跡が借金の担保に使われていた問題が発覚したためです。協会から2階級降格と無期限謹慎の処分を受け、同年12月に廃業しました。
Q5:輪島大士はなぜプロレスラーになったのですか?
A5:相撲協会を廃業した後、全日本プロレスに入門したためです。ジャイアント馬場のもとでトレーニングを積み、1986年にプロレスデビューしました。1988年12月に引退しています。
Q6:輪島大士と北の湖の関係は?
A6:両者は昭和の大相撲を代表するライバル横綱です。輪島の黄金の左と北の湖の強烈な攻めがぶつかり合い、「輪湖時代」と呼ばれる黄金期を築きました。
輪島大士の生涯は、第54代横綱としての栄光と、引退後の波乱に満ちた転身によって形づくられている。
日本大学で2年連続学生横綱に輝き、1970年に花籠部屋から初土俵。1973年には第54代横綱へ昇進し、「黄金の左」を武器に幕内優勝14回を達成した。北の湖との輪湖時代は、昭和の大相撲を象徴する名勝負の時代として記憶されている。
しかし、1981年の現役引退後は花籠部屋の師匠として新たな道を歩み、1985年の年寄名跡問題によって相撲協会を廃業。その翌年には全日本プロレスへ転向し、横綱経験者として異例の挑戦を始めた。
プロレスラーとしてのキャリアは約3年で幕を閉じたが、その後もスポーツや芸能の分野で活動した。2018年10月8日に70歳で亡くなった後も、相撲界に残した記録と個性的な存在感は色あせていない。
輪島大士を評価する際の要点は、幕内優勝14回という数字だけに注目しないことだ。学生相撲から横綱への道を切り開いた先駆性、黄金の左という独自の技術、北の湖との競争、そして親方廃業後も新しい世界へ挑戦した生き方まで含めて見ることで、その人物像が立体的に浮かび上がる。
2026年現在、輪島大士はすでに故人だが、その名前は昭和の大相撲を語るうえで欠かせない。673勝234敗85休、幕内優勝14回という記録とともに、時代を築いた横綱として後世に伝えられていく。
主な参考資料・記録
- 日本相撲協会「歴代横綱・第54代横綱 輪島大士」「大相撲クイズ No.193」
- 日刊スポーツ「『黄金の左』武器に優勝14回/輪島大士さん略歴」(2018年10月9日)
- 日刊スポーツ「黄金の左、のど輪落とし/輪島さん波瀾万丈人生」(2018年10月10日)
- 日刊スポーツ「借金、親方廃業、『大事件』プロレス入り」(2018年10月10日)
- テレビ朝日「元横綱・輪島大士さん(70)死去 14度の幕内優勝」
- ベースボール・マガジン社「週刊プロレス」関連資料